プロビデンス号

ことの始まりは「パンの木の苗木輸送」

イギリスは17世紀から18世紀初頭にかけ植民地だったバルバドスやジャマイカなどカリブ海の島々で奴隷を使ったサトウキビ栽培を盛んに行なっていました。

(チャットGPT: 17世紀から18世紀初頭のイギリスにとって、砂糖は非常に重要な商品でした。当時の社会では、砂糖は高価で贅沢な食品であり、富裕層や貴族の間で人気がありました。砂糖は、紅茶やコーヒーなどの飲料に甘みを与えるために広く使用され、これらの飲料は当時のイギリス社会で非常に人気がありました。このような紅茶文化の普及は、イギリスの砂糖消費を増加させ、砂糖貿易が拡大する一因となりました。砂糖はまた、奴隷制度の拡大と関連しており、当時の植民地での奴隷労働によって生産された砂糖がイギリスに輸入されていました)

同じくイギリスの植民地だったアメリカ独立後、アメリカ南部で生産されたトウモロコシ、米、豆などの穀物類が安価での入手困難となったので、タヒチなど南太平洋諸島で自生するパンの実を代替食糧として提供するための「パンの木の苗木輸送」が国家プロジェクトとして立ち上がりました。そして、ブライ船長指揮のもとにバウンティ号がその任務にあたりました。1787年12月23日にイギリスを出港し1788年10月26日にタヒチに着くも苗木の芽が出る翌年の雨季終盤(2〜4月)まで、半年近く異例の長期滞在せざるを得なくなりました。現地の人々は友好的で、乗組員は島の人と物資を交換したり、自宅へ招かれて歓迎を受け、夜は酒盛りをして楽園生活を満喫する日々でした。島の娘と結婚した乗組員もいました。楽しかった月日は過ぎ、1789年4月4日、採取したパンの木の苗を乗せて西インド諸島向けて出帆するもタヒチに戻る事を希望した一部の乗組員による反乱でバウンティ号はトンガ沖航行中乗っ取られました。

(ロンドンのNational Maritime Museum 所蔵) Credit: © National Maritime Museum, Greenwich, London.

(余談: 懲罰主義で横暴なブライ船長の厳しい指揮も反乱の一因とされています。この事件は「バウンティ号の反乱」と呼ばれマーロン・ブランド主演で映画化(1962年)された。

反乱後16人がタヒチに残り、イギリスから追手が来るのを恐れた9人はタヒチ島民男女数十人と共に無人島だったピトケアン島(オーストラリアと南米大陸の中間あたりの南太平洋に位置し面積は池間島の約1.5倍)に逃げる。1790年、イギリスは反乱者逮捕の為にパンドラ号を送りタヒチにいた14人を逮捕するもピトケアン島に逃げた9人は見つからずじまいだった。イギリスへの帰路パンドラ号は1791年オーストラリアのグレートバリアリーフに座礁・沈没)

プロビデンス号 (1791年〜1797年)

イギリス海軍所属3本マストの帆船。全長約33m、総トン数400トン。両舷に22門の大砲装備。

(オーストラリアの州立図書館New South Wales Library 所蔵)

奇跡的生還したブライ船長は1791年プロヴィデンス号指揮官に任命され再度タヒチに向かう。2年前の反省もあってか2千鉢余の苗木を積んだプロビデンス号は1793年セントビンセントやグレナダなどカリブ海の島々に到着し無事ミッション完了となりました。その後(1795年)、プロビデンス号は新しい船長(ウイリアム・ブロートン)指揮のもとでバンクーバー島などアメリカ大陸北西部を探査。

その後、太平洋を横断し朝鮮半島沿岸を航海、北海道沿岸と千島列島に向かう。ヨーロッパの地図上で空白地帯だった北太平洋海域の測量調査が主な目的でした。1796年9月28日北海道の室蘭に立ち寄ったあと越冬のためマカオに向かう。翌年1797年の春、南風に乗って再度北上するも5月16日八重千瀬(ヤビジ)のウッグス・ヌ・ッスウヒダ西端(池間漁師の間ではドゥ・ヌ・ナガツブと呼ばれるポイント)に乗り上げ沈没する。その時の様子をブロートン船長は北太平洋探検航海記に記してます。

午後7時 S60度E、他の島(宮古島)の先端から西側の位置にハモック島(大神島)が見え、S10度Wからは約5リーグ。マスト上の見張りから大神島の西もしくは北の方角に島影は無く右舷側前方にも一切の危険物なしとの報告を受ける。8時の方向に進路をとり夜が明けるまで風上に向かって進む事にした。月が昇るのは午前0時と予想される。スクーナー船(マカオで購入したプリンス・ウイリアム・ヘンリー号)はまだ定位置についてない。(一部省略) 現在地は去年の12月3日に通り過ぎたタイピンサン島(宮古島)の北側である。

(ウイリアム・ブロートン船長著書: Voyage of Discovery To The North Pacific Ocean)

午後7時半

前方に白波が見え隠れする。その旨を当直のVashon君に告げがその直後船はリーフに衝突した。激しくはないが衝撃を感じたのでデッキに出た。途中Vashon君から惨事の報告をうける。直ちにオフィサーや船員たちをデッキに集め帆が逆風を受ける様に固定した。舵は風上に向け切ってあり帆は西北西に全開していた。危険を感じた時点で舵を風下に切っていたなら座礁は回避出来ただろう。(A Voyage Of Discovery To The North Pacific Ocean)

船をリーフから救い出すため夜を徹した努力にも拘らず波風に煽られたプロビデンス号の浸水は益々ひどくなり船は大きく傾いてしまう。明け方,ブロートン船長は船を離れる決心をし船長以下乗組員115人は伴走していた2本マストのスクーナー船に全員無事乗り移り水や食糧調達のため宮古島に向かい5月24日までの8日間滞在する。その間、物資補給や温かいもてなしを受けたブロートン船長は敬意の念を込めて宮古島の人々を「見返りを求めない民」と呼んだ。 (宮古島キッズネット参照)

https://miyakojima-kidsnet.org/R-providence.html

池間島の漁師はヤビジの海底に眠る帆船の存在を知っていた。沈没直後から木材や大砲など色々なものを引き上げたでしょうが、記録に残っているものとしては島出身の長嶺孝次氏が自分の大叔父長峰宗夫氏から聞き取った証言が自身の著書「探究」で紹介されています。宗夫氏は若いころから八重干瀬で漁を営んだ漁師で、プロビデンス号の大砲や底鉄(バラスト)等を引き上げた本人です。

長嶺宗夫: 「底鉄(スクガニ)といってな、丁度昨今建築で盛んに使用しているブロック、或いはレンガのようなものだが、長さが3尺ほどもあった。(中略)鉄の塊なんだ。それが途方もなく大量にあったんだ。」「わしがこの船を帆船だと考える理由は、その船の底の砂礫をツルハシで掘っていた時、帆縄を通す滑車が無数に散乱して出てきた。」「そうそう、滑車の金具には皆↑印が刻まれてた。」(注: ブロードアロー(Broad Arrow )と呼ばれイギリス海軍は17世紀末頃から軍の官有物に刻印した)

「わしは、15,6の時分からそこには潜っていたのだが、船体はもう無くなっていたのだ。ただね、底鉄や大砲やその他の金目のものだけが海底の砂礫中に残っていた。」「わしが今言った船の底板らしいものは、この砂礫に埋もれた底鉄の下に在ったのだ。(中略)ところが驚いたことには、この底板には銅板が張り巡らされていた。」「つまり、喫水線下の全面が銅板で包まれていたのだろう。」

長嶺孝次著書「探究」より