明治37年
専用漁業権を取得するため池間漁業協同組合前身の委任制の池前漁業組合が設立された
明治42年
8月に法人組合として池前漁業協同組合が組織強化される
明治43年
(西暦1910年)11月、沖縄県より設立認可の通知が届き、正式に「池前漁協協同組合」が設立された
鰹漁業生産組合も発足、その頃池間島の鰹船は5隻、鰹漁業は急速に伸び有望性と将来性が明らかになり、池間島の鰹漁業従事者の技術の向上により、鰹漁業が本格的に開かれる。
明治44年
池間の鰹漁船が二本帆柱の和船より動力化になる。発動機船の漁獲能率が向上
大正4年
動力付の漁船6隻、各船ともそれぞれ鰹節の製造工場を持ち、組合組織でも鰹節工場を持ち漁獲高は年々向上し、他村から出稼ぎに来るものが増え始めた。まさしく「池間島の鰹黄金期」に入ったのである
※この頃から鰹節削り女工のようお政が計画的にすすめられ、漁獲高の向上とともに女工たちの稼ぐ削り賃は各家庭を潤わせた
※明治41年ごろ四国の愛媛県より経営者にともなわれて鰹節削り女工さんたちも代わる代わる池間島へ来島。最初は4名で一人は教師だった。その女工たちの技術が後々の池間島の鰹節製造業に大きな功績を残すことになる。大正天皇の御大典があり、池間島でも提灯行列が行われる
大正4年
池前漁協協同組合の経費として漁獲売上代金の2分を組合員から徴収することになる
大正7年
第一次世界大戦が終結し経済界の好況は池間島の鰹業・鰹製造工業にも影響を与え更なる池間島の好景気時代が到来
大正8年
10月、宮古島内にコレラが大流行した。池間島は宮古島他村との交通をいっさい遮断漁業組合では昼夜ともに見張員をおいて島の周囲を監視させた。必需品は漁船を出し那覇から食料品などの買い出しを行った。そのような状況が1年ほど続き、池間島から罹患者が一人も出なかった
大正10年
池前漁業協同組合及び青年会場が落成した(それまで総会などは学校で実施)
大正12年
池前漁業協同組合設立20周年の記念式典が催行された。
大正13年
池間島の鰹漁船に散水器が備え付けられる
昭和4年
6月 青年7名がボルネオの鰹釣り漁業に従事するため宮古島を出発漁業者の渡航はしばしば続く。
昭和5年
大型鮪延縄漁船宝丸が建造される第一大戦後の経済的好況は次第に衰退に向かい、この波は漁業界にも波及。
鰹節の値段の下落と生産の減退が始まる昭和4・5年ごろ鰹組合は次々と解散し親方制度となる
昭和5年
南洋渡航が急激に増えていく(昭和10年ごろピークとなっていく)
昭和5年
8月、存続期間が20年であった八重干瀬の専用漁業権がふたたび地先水面専業権として認可された。
昭和7年
台湾方面での強烈な暴風のため池間の漁船1隻が遭難。20数名の漁夫が死亡
昭和8年
漁業組合令が改正、従来の組合は出資制度と同時に経済行為も行えるようになった
昭和9年
3ケ年の継続事業で仲間越し(旧池間港)に築港ができる。毎年の暴風で被害をうけていた漁船はこの船だまり施設ができることにより被害を最小限に抑えることができた
昭和10年
漁業権を巡る紛争が分村の佐良浜との間で起こる
昭和11年
組織変更を衆議一決 名称を「保証責任池前漁業協同組合」となる漁船数は11隻で親方制であった
昭和12年
瑞光丸が南方へ渡航、南方出漁奨励の沖縄県助成による建造船であったその後、次々と南方への渡航が続く
昭和12年
日支事変が起こり戦時体制に切りかえられてから燃料不足で出漁が順調にできなくなる
昭和12年
漁業協同組合の陳情の甲斐あり、農林省の補助で平良に小型製氷機が作られ、給水施設漁獲物共同配売所が作られる
昭和16年
12月8日日本は連合軍に対して宣戦布告 太平洋戦争の波にのまれていく。組合員からも応召兵が続々とでた。
昭和17年
池前漁業組合から池間漁業組合に組織変更される
昭和19年
池間島では台湾への疎開が始まる。池間島から漁船で食料を台湾へ送り届けたり疎開先を見舞ったりする
昭和19年
戦争による燃料不足に伴い、石油購入のため鰹漁船6隻が船団を組み北ボルネオへ出航した。鰹漁船6隻は無事帰還するも、購入した燃料は日本軍に没収となる
昭和20年
漁船を利用して台湾の各地に疎開していた池間島の人々の引揚げを行った。池間丸が食料調達のため池間島と与那国島の間を往復した
昭和25年
台風エンシーの襲来で「大本丸」が遭難したが、「瑞光丸」によって乗組員全員が救助された定期連絡船「池間丸」は荷川取の浜辺に緊急接岸し難を逃れた。
昭和26年
米国民政府の布令で琉球協同組合法が公布され、これによって「池間漁業協同組合」と認可され発足。
昭和32年
定期連絡船「池間丸」が新造されて就航した
昭和33年
組合傘下の各鰹船の船主が合同で池間共同化工場を完成させる。
昭和34年
宮古島の近海、宝山曽根の近くで森田真弘氏所有の福太郎丸がさんご漁場を発見
昭和34年
9月、宮古島台風(サラ台風)が宮古島を遅い全船大小の被害を受ける
昭和34年
宮古島の近海、宝山曽根の近くでさんご漁場を発見
昭和35年
サンゴ・ブームが起き、鰹船もいっせいにさんご船へ転換する。
昭和36年
池間漁港が佐良浜漁港や久松漁港とともに第一種漁港に指定された
昭和36年
池間漁業協同組合によって「池間丸」が1日1往復平良=池間島間を往復した
昭和37年
「吉進丸」の伊良波進氏が現在の袋網で活餌取りを開始した
昭和39年
池間漁港は避難港として整備事業が開始された
昭和42年
定期連絡船「池間丸」が新造されて就航した
昭和42年
池間漁業協同組合の船籍の鰹漁船「雄山丸」が鰹漁へ向かう途中石垣島の中学3年生を救助した
昭和45年
第2次南方基地漁業が開始、池間島から鰹漁船3隻がパラオ諸島やパプアニューギニアに向けて出発した
昭和49年
1974年(昭和49年) 南方出漁漁船団で700人がソロモン諸島、パプアニューギニアに向けて出発
昭和50年
池間漁業協同組合の共同利用施設が完成し、祝賀会が開催された。鰹漁船団43隻が南方へ向けて出発した
昭和53年
南方基地の鰹業が最盛期を迎える一方、池間島の鰹漁業は衰退していく
昭和55年
池間島=平良間をフェリー「なかと」が就航した
昭和56年
フェリー「なかと」が「池間丸」と改名した
昭和56年
6年ぶりに新造の鰹漁船「宝幸丸」と「宝山丸」が進水した。
昭和58年
池間漁港が開港し、式典と祝賀会が実施された(昭和47年から昭和56年までの10年間の歳月と18.9億円の総工費が投じられた)
平成4年
池間大橋が開通した(総事業費は99億円に達した)
平成7年
池間中学校の生徒たちが鰹産業の体験学習を行い、男子は鰹一本釣りを体験、女子は鰹節製造体験を行った
平成9年
第1回「かつお感謝まつり」が開催された。
平成17年
池間漁業協同組合 女性部「母ちゃんたちの市場」が海と陸の幸を販売して好評を得た
平成18年
長きにわたり池間島を支えてきた鰹漁業と鰹節製造業が完全に休業した