池間漁業協同組合について

明治43年に設立された池間漁業協同組合は、設立当時よりカツオ産業(カツオ一本釣り漁業と鰹節製造業)とともに歩んできました。近海でのカツオ漁業、戦前、戦後を通しての遠い南方、パラオやボルネオ諸島、パプアニューギニアでのカツオ漁業など隆盛を極めた時代を経て、近年はカツオ回遊の減少とともにカツオ産業は廃業となり、現在では古からの伝統漁法「石巻落とし漁」や一本釣りなどが盛んに行われています。

また、四周海でかこまれた「池間島」のそばには幻の大陸と呼ばれる「八重干瀬(ヤビジ)」という豊穣の漁場もあり、現在、遊漁船での「八重干瀬周遊ツアー」や釣り体験など観光へも力をいれ、漁業及び観光など双方より島の活性化に取り組んでいます。

池間漁港について

組合概要

団体名 池間漁業協同組合
設立 明治37年(1904年)
組合員数(令和5年4月現在) 正組合員 36名 准組合員数 66名 合計102名
役職員 (理事名、監事2名)
代表理事組合長 與那嶺  大
理事 前 泊  穰二
理事 伊良波  真作
理事 眞栄里  泰智
理事 仲 間  正弘
代表監監事 川 上  直輝
監事 上 里  奬

    

事業内容

(1)水産資源の管理及び水産動植物の増殖。
(2)水産に関する経営及び技術の向上に関する指導。
(3)組合員の事業または生活に必要な物資の供給。
(4)組合員の事業または生活に必要な共同利用施設の設置。
(5)組合員の漁獲物その他の生産物の運搬、加工、保管または販売。
(6)漁場の利用委に関する事業。
(7)潮干狩り場の設置、運営事業、遊覧船事業及び組合員への斡旋事業。
(8)船溜まり、船揚げ場、漁礁その他組合員の漁業に必要な設備の設置。

など

組合長あいさつ

組合長あいさつ

伝統と文化、豊かな自然が今も残る池間島の魅力を次の世代に繋げていく

池間漁業協同組合 與那嶺 大

池間漁業協同組合は、明治37年(1904年)設立の100年企業であることが沖縄県紙の琉球新報にて紹介されています。 国内最大級のサンゴ礁ともいわれる「幻の大陸八重干瀬(ヤビジ)」やフデ岩等の豊饒な大自然に囲まれた島に隣接する豊かな漁場が組合員や島民の生活を支えてきました。 伝統漁法の石巻落とし漁法は現在でも利活用され、1本釣や底魚1本釣でマチ類や、タイ類、サメなど多種の魚類が捕獲されています。1972年の祖国復帰当時179隻の組合所属漁船数は、現在66隻までに減少し、組合員数も約4分の1の102名(正・准合計)という少子高齢化が著しい速度で進行している離島の組合でもあります。 漁業環境にとっては、厳しい社会情勢の中にありながらも、近年は、漁業だけでなく、圏域の県立高校と連携した新しい観光業の確立や、八重干瀬のサンゴ礁保全を目的に組合所属漁船による周遊ツアーの案内などを提案実践し、観光と漁業の一体化した「海業の振興」を軸にした地域づくりを目指しています。 現役91歳の組合員も元気いっぱいで活躍しており、「生涯現役」の島づくりを組合全体で地域と共に創り上げていきたいと思います。皆様方の温かいご指導・ご鞭撻をよろしくお願い致します。

池間漁業協同組合所属船舶写真

「船名 ひろ丸」川上重幸所有

「船名:ひろ丸」
川上重幸所有

「船名 侑城丸」長嶺悟所有

「船名:侑城丸」
長嶺悟所有

「船名 初音丸」(仲原一實)

「船名:初音丸」
(仲原一實)

「船名 海遊丸」(前泊穰二)

「船名:海遊丸」
(前泊穰二)

「船名 初幸丸」(上里奬)

「船名:初幸丸」
(上里奬)

「船名 二代目かりゆし」(平安山健次)

「船名:二代目かりゆし」
(平安山健次)

「船名 第三吉進丸」(伊良波満也)

「船名:第三吉進丸」
(伊良波満也)

「船名 第二十六池間丸」(勝連浩佳)

「船名:第二十六池間丸」
(勝連浩佳)

池間漁業協同組合の沿革

池間漁業協同組合の沿革
明治37年
専用漁業権を取得するため池間漁業協同組合前身の委任制の池前漁業組合が設立された
明治42年
8月に法人組合として池前漁業協同組合が組織強化される
明治43年
(西暦1910年)11月、沖縄県より設立認可の通知が届き、正式に「池前漁協協同組合」が設立された
鰹漁業生産組合も発足、その頃池間島の鰹船は5隻、鰹漁業は急速に伸び有望性と将来性が明らかになり、池間島の鰹漁業従事者の技術の向上により、鰹漁業が本格的に開かれる。
明治44年
池間の鰹漁船が二本帆柱の和船より動力化になる。発動機船の漁獲能率が向上
大正4年
動力付の漁船6隻、各船ともそれぞれ鰹節の製造工場を持ち、組合組織でも鰹節工場を持ち漁獲高は年々向上し、他村から出稼ぎに来るものが増え始めた。まさしく「池間島の鰹黄金期」に入ったのである
※この頃から鰹節削り女工のようお政が計画的にすすめられ、漁獲高の向上とともに女工たちの稼ぐ削り賃は各家庭を潤わせた
※明治41年ごろ四国の愛媛県より経営者にともなわれて鰹節削り女工さんたちも代わる代わる池間島へ来島。最初は4名で一人は教師だった。その女工たちの技術が後々の池間島の鰹節製造業に大きな功績を残すことになる。大正天皇の御大典があり、池間島でも提灯行列が行われる
大正4年
池前漁協協同組合の経費として漁獲売上代金の2分を組合員から徴収することになる
大正7年
第一次世界大戦が終結し経済界の好況は池間島の鰹業・鰹製造工業にも影響を与え更なる池間島の好景気時代が到来
大正8年
10月、宮古島内にコレラが大流行した。池間島は宮古島他村との交通をいっさい遮断漁業組合では昼夜ともに見張員をおいて島の周囲を監視させた。必需品は漁船を出し那覇から食料品などの買い出しを行った。そのような状況が1年ほど続き、池間島から罹患者が一人も出なかった
大正10年
池前漁業協同組合及び青年会場が落成した(それまで総会などは学校で実施)
大正12年
池前漁業協同組合設立20周年の記念式典が催行された。
大正13年
池間島の鰹漁船に散水器が備え付けられる
昭和4年
6月 青年7名がボルネオの鰹釣り漁業に従事するため宮古島を出発漁業者の渡航はしばしば続く。
昭和5年
大型鮪延縄漁船宝丸が建造される第一大戦後の経済的好況は次第に衰退に向かい、この波は漁業界にも波及。
鰹節の値段の下落と生産の減退が始まる昭和4・5年ごろ鰹組合は次々と解散し親方制度となる
昭和5年
南洋渡航が急激に増えていく(昭和10年ごろピークとなっていく)
昭和5年
8月、存続期間が20年であった八重干瀬の専用漁業権がふたたび地先水面専業権として認可された。
昭和7年
台湾方面での強烈な暴風のため池間の漁船1隻が遭難。20数名の漁夫が死亡
昭和8年
漁業組合令が改正、従来の組合は出資制度と同時に経済行為も行えるようになった
昭和9年
3ケ年の継続事業で仲間越し(旧池間港)に築港ができる。毎年の暴風で被害をうけていた漁船はこの船だまり施設ができることにより被害を最小限に抑えることができた
昭和10年
漁業権を巡る紛争が分村の佐良浜との間で起こる
昭和11年
組織変更を衆議一決 名称を「保証責任池前漁業協同組合」となる漁船数は11隻で親方制であった
昭和12年
瑞光丸が南方へ渡航、南方出漁奨励の沖縄県助成による建造船であったその後、次々と南方への渡航が続く
昭和12年
日支事変が起こり戦時体制に切りかえられてから燃料不足で出漁が順調にできなくなる
昭和12年
漁業協同組合の陳情の甲斐あり、農林省の補助で平良に小型製氷機が作られ、給水施設漁獲物共同配売所が作られる
昭和16年
12月8日日本は連合軍に対して宣戦布告 太平洋戦争の波にのまれていく。組合員からも応召兵が続々とでた。
昭和17年
池前漁業組合から池間漁業組合に組織変更される
昭和19年
池間島では台湾への疎開が始まる。池間島から漁船で食料を台湾へ送り届けたり疎開先を見舞ったりする
昭和19年
鰹漁船6隻が船団を組み石油運搬のため北ボルネオへ出航した
昭和20年
漁船を利用して台湾の各地に疎開していた池間島の人々の引揚げを行った。池間丸が食料調達のため池間島と与那国島の間を往復した
昭和23年
池前水産組合に改組
昭和25年
台風エンシーの襲来で「大本丸」が遭難したが、「瑞光丸」によって乗組員全員が救助された定期連絡船「池間丸」は荷川取の浜辺に緊急接岸し難を逃れた。
昭和26年
米国民政府の布令で琉球協同組合法が公布され、これによって「池間漁業協同組合」と認可され発足。
昭和32年
定期連絡船「池間丸」が新造されて就航した
昭和33年
組合傘下の各鰹船の船主が合同で池間共同化工場を完成させる。
昭和34年
組合員数479名 全沖縄においても上位の地位をしめる
昭和34年
9月、宮古島台風(サラ台風)が宮古島を遅い全船大小の被害を受ける
昭和34年
宮古島の近海、宝山曽根の近くでさんご漁場を発見
昭和35年
サンゴ・ブームが起き、鰹船もいっせいにさんご船へ転換する。
昭和36年
池間漁港が佐良浜漁港や久松漁港とともに第一種漁港に指定された
昭和36年
池間漁業協同組合によって「池間丸」が1日1往復平良=池間島間を往復した
昭和37年
「吉進丸」の伊良波進氏が現在の袋網で活餌取りを開始した
昭和39年
池間漁港は避難港として整備事業が開始された
昭和42年
定期連絡船「池間丸」が新造されて就航した
昭和42年
池間漁業協同組合の船籍の鰹漁船「雄山丸」が鰹漁へ向かう途中石垣島の中学3年生を救助した
昭和45年
第2次南方基地漁業が開始、池間島から鰹漁船3隻がパラオ諸島やパプアニューギニアに向けて出発した
昭和49年
1974年(昭和49年) 南方出漁漁船団で700人がソロモン諸島、パプアニューギニアに向けて出発
昭和50年
池間島漁業協同組合の共同利用施設が完成し、祝賀会が開催された。鰹漁船団43隻が南方へ向けて出発した
昭和53年
南方基地の鰹業が最盛期を迎える一方、池間島の鰹漁業は衰退していく
昭和55年
池間島=平良間をフェリー「なかと」が就航した
昭和56年
フェリー「なかと」が「池間丸」と改名した
昭和56年
6年ぶりに新造の鰹漁船「宝幸丸」と「宝山丸」が進水した。
昭和58年
池間漁港が開港し、式典と祝賀会が実施された(昭和47年から昭和56年までの10年間の歳月と18.9億円の総工費が投じられた)
昭和59年
池間島漁民センターが落成した
昭和61年
池間漁港の第2防波堤灯台が点灯した。
昭和61年
池間島離島振興総合センターが落成した
平成4年
池間大橋が開通した(総事業費は99億円に達した)
平成7年
池間中学校の生徒たちが鰹産業の体験学習を行い、男子は鰹一本釣りを体験、女子は鰹節製造体験を行った
平成9年
第1回「かつお感謝まつり」が開催された。
平成17年
池間漁業協同組合 女性部「母ちゃんたちの市場」が海と陸の幸を販売して好評を得た
平成18年
長きにわたり池間島を支えてきた鰹漁業と鰹節製造業が完全に休業した
参考及び引用文献
仲間屋真小伝(池間島漁業略史) 森田真弘著
沖縄池間島民族誌 野口武徳著
宮古・池間島のカツオ産業文化誌(1)ー近現代における池間島カツオ産業史の整理と検討-
若林良和・川上哲也著